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2022年2月28日更新 投稿者

第6回定時社員総会を終えて

2022/2/28に、無事に第6回の定時社員総会を終えました。
コロナ禍のためにオンライン開催としました。
2年前には全く想定できませんでしたが、すでに皆さんオンラインに慣れていて、後期高齢者になっている社員の方もいらっしゃるんですが、何の問題もありませんでした。

そして、ロシアによるウクライナ侵略が進んでいるなどとは、1か月ほど前には思ってもみないことでした。
とはいえ、ナチズムの台頭や、日本の日中事変等、アメリカのイラク侵攻など、こうした悲しいできごとは繰り返し起きているというのもまた事実です。

ところで、プリゴジンの散逸構造論という、私が大学時代に流行っていた学問があります。
物事は散逸していくだけのように見えるけど、混沌の中から秩序が生まれていることもある、という話です。
残念ながら、ちょっとしたイザコザが各地で起きているだけのはずなのに、一定の確率で、まとまって大きな侵略や戦争といった事象に発展してしまう、ということが起きるのが「必然なのではないか」とすら、この理論から感じてしまうわけです。
が、それが理論であれば、もしかしたら制御できるのかもしれない、ともいえます。
(熱が冷めれば自然に落ち着くのですが。。。)
まだまだ、自然科学のこうしたが議論が、社会科学に応用できる範囲もあるのかなと、ちょっとそういう期待も膨らみます。
(詳しくないので、実際のところはわかりません。あくまで妄想です)

実は、第2回定時社員総会を終えてから、社員総会についてのコラムは書いていませんでした。
当時を読み返すと、たった4年前なのですが、当時とさほど大きく課題は変わっていないなぁ、という一抹の悲しさがあります。

第2期定時社員総会を終えて

地域について
「補助金・交付金に頼らない持続性や事業性」
「RESASなど地域を知る手段について、使い方の課題が多く、解決が必要」
「AIやIoTの基盤整備に本腰を入れた絵図面がそろそろ必要になってくるのではないか」
「失敗したプロセスこそ公開してほしい」
というのが4つの期待だったのですが、2つ目と3つ目の、いわゆるDXはデジタル庁もできて進みつつありますが、正直、もう少し時間がかかりそうだ、という印象です。

それは、結局、DXのXの方、つまりトランスフォーメーションが進まないからです。

方法論を変えればもっと質も良くなり、楽にもなるのに、どういうわけか方法論は変えたくない病

が蔓延しているからに他なりません。

弊社は、多様性こそが国の安定性に通じる、だからこそ、地域の個性を磨いた方がいい、ということを、社是としてやってきています。
活性化ではなくて、個性をみがく、です。
この個性は最終的には、地域の個性ではなく、一人一人の個性に繋がる、と言うことをここ2年くらいは大事にしています。
西会津町での取り組みは、そうしたことを実践させていただけていて、自立した結果が出始めています。
結局、子供の教育というところに最近関わっているのも、この一人一人がキーワードだからです。

この個性、多様性は、今風に言うと、日本はDAO(分散型自律組織)を目指しましょう、みたいな話でしょうか。

ところが、相変わらず、画一的なガバナンスは修正されません。
「ATMがちょっと止まると大騒ぎ」
「それに合わせて行政指導」
を繰り返しています。
欧米に行くと、ATMが止まっているなど、普通にあるにもかかわらず。

つまりは、1分でも止まってもらっては困る人々には今のようなガバナンスが必要です。しかし、そうでない人には、今のような高コストのガバナンスは要らない、ということになります。
つまり、利用者側の多様性もあるはずなのに、相変わらず、そうしたセグメント化はなされません。
個性や多様性というのは、そういうことを意味しますが、どういうわけか、一番、面倒なことに合わせてしまう、という決まり事が、この国には存在しているようです。
都市の公園は「禁止事項の看板の山」になっています(豊島区の公園にはやっていいことも書いてあります)

データの利活用についても、「個人情報を国が管理するのはやばい」と言って大騒ぎするのですが、これも、管理してもらった方が良い、と思う人だけ管理してもらえば良い、と言う選択ができるはずです。まさに、データポータビリティーの議論がそれにあたります。

つまり、

方法論を変えたくない病、なのではなくて、変えてもいい人を分けてくれない病なのかもしれない

と言うことがこれでわかります。

いろいろある混沌を認めてしまうと、一定の確率で秩序ができ、それは戦争になるのかもしれない、ということだとすると、正直、今の日本の統治は間違っていないのかもしれません。
が、一方で、良い秩序も一定の確率でできるわけですから、そちらも同時に失っている可能性があります。

振り子のようなものですね。
小さい振り子だと振れ幅は小さいです。大きい振り子は振れ幅が大きい。その分、右に大きく振れれば、左にも大きく振れることになります。
(左に大きく振れた時が、悪い時。例えば戦争でしょう)
日本は小さい、世界は大きい、と言えばわかりやすいでしょうか。

地方創生についても、なんだか同じようなトライアルをただ繰り返しているようで、つまらないなぁ、と思うことが増えました。
多分、これは、同じ統治構造でずっとやっているからなんだろうと思います。
(例えば、首長は4年毎に選挙です。ですから、どうしても近視眼的な政策しか作れない。思い切って、自分たちは8年にする、と決めれば、それでもいいんじゃないでしょうか?。そもそも4年間が最適解であるって、どうやって証明したんだろう、と言う気もします。)
何かあると「補助金・交付金」になってしまって、ビジネスと言う話になりません。失敗した理由もわからないので、結局、同じような失敗を繰り返しているようにも感じます。
学びがないんですね。

日本はこのまま小さい振り子でやっていくと、大きい振り子を望む人は、どんどん日本から流出していくように感じます。
地方の小さい振り子から逃れるために、都会に人が流出したように。
人口減少や将来の緊縮財政を想定して、地方はさらに小さい振り子にしようと言う動きも少なくありません。
先ほどのATMの話ではないのですが、ちょっとくらい止まっても良いよ、と妥協すれば、他にコストを投入する選択ができます。

「何を止めるか」の選択の時に、振り子を小さくするのではなく大きくなるような選択をする
そのためには、現状で良い人と、そうでない人を分けてもいいことにする。

この辺りが鍵なのではないかな、と、そろそろ地域が本当にダメになる臨界点に近づいている地域には、ぜひ、伝えていきたい。

そんなことを、今日の社員総会を終わって噛み締めていました。

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