2025年6月21日更新 投稿者 代表理事:澤 尚幸
AmalfiとVeneziaに来て感じたこと
前回、ナポリに来た理由は二つあるというお話をした。(Napoliに来て感じたこと)
今回は2つ目の、オーバーツーリズムについて書いておきたい。
地中海ダイエットで有名なチレントエリアからナポリ市内に戻る途中、アマルフィ海岸に立ち寄った。
アマルフィは50kmあまり続くアマルフィ海岸にある一都市の名前だ。
ヴェネツィア、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァという4台海洋都市の一つで、もっと早くに開け、もっとも早くに滅亡したのがアマルフィになる。
そしてナポリからヴェネツィアへ。
皆さんがイメージするヴェネチィアは、ヴェネツィア本島と言われる地域で、非常にホテルも高い。
私は、その手前にあるメストレ地区のホテルに宿泊した。
アマルフィもヴェネツィアもオーバーツーリズムで有名だが、特にひどい状態なのは、
アマルフィ海岸の中のアマルフィと、ヴェネツィア本島だ。
それらを直に体験しながら、その中で行われている対策について、いろいろお話を聞き、また気づくことができた。
アマルフィ海岸にある漁村。アマルフィの街からちょっと離れると静かで海が美しい。
まず、どちらにも共通しているのは、世界遺産であるということ。
道路の拡張や建物の建て替えもままならない。
なので、どちらも昔の構造がそのまま残っている。
石だたみもそのまま。これは、他の街でもそうだが、運転しにくいから舗装すればいいとは思わない。
これは「景観を残す」という意味では、素晴らしい。
想定されるアマルフィ、想定されるヴェネツィアがそこにある。
一方で、日本では京都も昔の町屋がどんどんなくなり、なんとなく京都風のマンションやホテルが立ち並んでいる。
そのうち、京都は京都風になってしまうだろうと感じているが、頑なに
「世界遺産を守る」
という気概はすごいなと思う。
これは、なんだかわからないけど、奈良や飛鳥も同じ。
最近のハリボテの復元ラッシュは、自分なりの奈良時代や飛鳥時代を創造することすら許してくれなくなっている。
第二次世界大戦で破壊された街並みをコツコツと復元してきたヨーロッパの人々。
それに比較して、日本は安易に壊してしまい、ハリボテを建築する。
城は江戸時代のように再建するけど、街並みは昭和になる。
ヨーロッパはそういうアンバランスなことはしない。
実は、ヨーロッパに向かう直前、奥野健男の「深層日本帰行」を読んだ。
その中で、ヨーロッパと日本の自然観の違いが表現されていた。
端的に言えば、日本は自然が豊かなので創られて、滅びるものという意識がある。
逆にヨーロッパでは自然は敵であり、怖いものだという意識があるのだという。
その結果、日本では、建築もヨーロッパのように保存しようとは思わないのだと。
今までずっと気になってきたが、一神教と多神教の違いも含めて、妙に納得した。
実はオーバーツーリズム対策にも、この何を守るか、ということの意志が感じられる。
守るべきものの対象には、
があるように感じられる。
本島の中は、やたら人・人・人
ざっと気づいたことを列挙していくことにしよう。
アマルフィの中心にあるドゥオーモ(大聖堂)
- 観光用の営業車は、観光地のメインの場所に停車しただけで高額の支払いが必要(アマルフィは1秒止めても€10)
- やたら高い入場料(観光で来た人には容赦なくコスト負担を強いる)や宿泊税。ヴェネツィア本島には入島税もある。
- ヴェネツィアの水上バスは、地元住民優先の窓口があり、観光客は入れない。どれだけ溢れていても、地元住民が先に乗れる。(一方で、観光客が溢れてくると、臨時便を出すなどの対応はしっかりやっている)
- 地元住民専用の定期券などは格安で、結果的に観光客は高い交通費を支払うことになる
ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図が公開されていたアカデミア美術館(入場料€20)
加えて、現在は、民泊の締め出しの方向の動きがあるという。
ヴェネツィアは非常に宿泊費用が高く、それがオーバーツーリズムを抑制していたと考えられている。
確かに世界遺産で安易に建物の改築などは行えないが、建物の中に多くの民泊が作られ、比較的安価で(と言っても、高額だが)宿泊ができることになった。
その結果が、オーバーツーリズムの原因になっている、というのである。
ヨーロッパというと、ツェルマットやグリンデルワルドなど、観光立国の成功例が多い。
こうした成功例と比較すると、電子キーや宿泊サイトなど、デジタル化の波をどのように制御するのか、というのも、オーバーツーリズム対策の一つであるような気がしてくる。
こう考えてくると、京都など日本のオーバーツーリズムも全く同じ様相ではないだろうか?
すでに、地域住民が乗れないほどのバスは混雑。観光客がひしめき合い、私自身も京都で下車できずに大声で運転手に後ろから話をした経験がある。
- 観光客(これは外国人に限らない)から地域住民を分離する対策
- 観光客にしっかりコスト負担を求める対策
- 観光客の量ではなく、質を求める対策
がやはり必要なのではないか、というのが、この2つの都市を歩きながら感じたことだった。
一方で、負の側面もたくさんある。
それは、こうした対策にも抜け道がたくさんあるらしい、というお話だった。
例えば、営業車を”営業車ではない”と偽った、いわゆる白タクの横行などである。
これはイタリアに限ったことではなく、日本でも実際存在しているようで、いわゆる裏経済の問題ということになるのだろう。
加えて、ヴェネツィア本島にも、昔「観光地として住民を締め出すべきだ」という資本主義的な感覚の議論もあったらしい。
それが原因かどうかはわからないけれど、70年間で、人口が70%減少しているという。
ふと、オーバーツーリズムを考えながら歩いていて、京都では
「バスの運転手が足りないのでこれ以上増便できません」
という貼り紙があったことを思い出した。
ヴェネツィアを見て気づいたのは、これはヨーロッパ全体で感じたことでもあるけれど
- 連接バスが多い(運転手が2台分を1人で運転できる)
- トラムの新設(メストレから本島へのメトロが一度廃止されたが、2015年に50年ぶりに再建)
- 切符はゾーン制や均一性で、検札によるチェックであり、無駄な人件費を極力抑制している
ということだった。
メストレに新設されたトラム
交通体系の整備と人的資源の有効活用といったところも、実はオーバーツーリズム対策として考えなければいけないのだろう。
こうやって見てくると
ということが浮かび上がってくるように思う。これが、この2つの町で感じた、私のキーワードになった。