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2025年6月22日更新 投稿者

BolognaとHelsinkiに来て感じたこと

長い旅の終着点は、イタリアはボローニャ、そして、欧州ではフィンランドのヘルシンキだった。

日程と予算の都合で、ミラノからヘルシンキ経由で東京というトランジットルートにたまたまなったからだけど、わざわざ一泊して、ヘルシンキに立ち寄りたい理由があった。

2022年の11月に東陽町にあるギャラリーエークワッドで開催されていた、
「本のある風景 公共図書館のこれから」
で知った、ヘルシンキ中央図書館を訪れたかったからだ。
この展示では、現在の図書館の機能(無料、閲覧室、架書式、貸出、誰でも利用できる、、、)が、実は歴史の中で作られてきた経験の賜物である、ということを知るとともに、図書館が
“本がたくさんあるところ”
から
“誰でも来ることができる情報が得られる場”
に変貌していることが解説されていた。
例えば、ニューヨーク公立図書館では、移民のための”英語が学べる場”や、”亡命の受け入れ”といった事務までやっているという。
誰でも来ることができて、情報が得るために”必要な”スキルの提供をやるのも図書館の業務である、という矜持だろう。

この中で、特に興味深かったのが、ヘルシンキ中央図書館「Oodi」だった。

このスケジュールを移動教室の多木さんは知っていたのだろうか、
「最終日に行きませんか?」
と誘われたのが、ボローニャ市立中央図書館「サラボルサ」だった。
移動教室については前回のブログをお読みください

ボローニャのど真ん中にあるマッジョーレ広場。
この広場に隣接するのが「サラボルサ」で、広い屋根付きの広場が真ん中にある。
ボローニャ駅からは長い長いアーケードが続き、ボローニャは世界で最も古い大学(近代型の大学)であるボローニャ大学もある文教都市でもある。

 サラボルサの外観(ちょっと図書館には見えない)

先に述べた「本のある風景」には、石川県立図書館の展示もあり、また、地域づくりに図書館というものにターゲットが当たるケースが最近は少なくない。私自身も、多くの図書館にこれまで足を運んできた。
ざっと、
米沢市の「ナセBA」、那須塩原の「みるる」、富山市の「TOYAMAキラリ」、武蔵野市「武蔵野プレイス」、「武雄市立図書館」をスタートとしてCCCが手がけた公共図書館群、秋田教養大学図書館を訪れた記憶がある。

さて、では、サラボルサとOodiはどうだったのか。。。

まず、圧倒的に空間が広いというのがどちらにも共通している。
視界が広いのだ。
サラボルサは、真ん中の巨大な屋根付き広場が圧巻。

サラボルサの屋根付き広場

さらに、Oodiは、高い天井の割に、書架が低く、たった3段。
その結果、端から端が見通せる広々とした空間になっている。

空間の広さがわかるOodi

しかも3階建てにも関わらず、図書館の書架は3階の一部、ざっと、建坪全体の1/6程度ではないかという状況だった。
“本がたくさんあるところ”
ではないのだ。

そして、両方に共通していたのが、

  • こども図書館が非常に広いこと(サラボルサには10代向けのスペースが別に設けられていた)
  • セミナールームが充実していること
  • 座る場所がそこらじゅうにあり、必ずしも本を読んでいる人だけではない。

ということであり、Oodiについては更に。

  • 2Fは、ほぼ3Dプリンターを始めた印刷機能や、スタジオやワークスペースとなっており、デザイナーぽい人たちが、ここで大きなモニターを前にクリエイティブな仕事をしている
  • 1Fには大きなレストランがあり、お昼時には美味しそうなビュッフェに並ぶ人々がみられた。
  • 地下には、巨大なジェンダーフリートイレがあり、この建物の一つの象徴になっている(残念ながら撮影禁止だったけど、Webでいくらでも写真があるので、気になる方はWeb検索を!)

Oodiの外観。大きな芝生広場では、遊びまくるこどもたちも

実は、ヘルシンキでの2日目、中心部にあるホテルからトラムに乗って10分ほどのシベリウス公園に行った。
公園は非常に広く、都市の中に公園があるのではなく、公園の中に都市がある、というのがヘルシンキだ、という印象を持った。
程なく静かな海岸線に出て、海岸線から少し突き出した有名なカフェでアメリカーノと名物のシナモンロールを食べた。

自然を敵とみなす西洋に対し、自然を仲間と見做すという日本に近い雰囲気を感じた。
実際、フィンランドは今でこそキリスト教徒が多いが、つい最近まではアニミズムの国だったのだそうだ。
ただ。一点、日本とは真逆の感覚を感じた。
日本では「自然保護」というように、自然は「人間が保護するもの」という意識が広がっている。
フィンランドは保護されているのは「人間である」という感覚が非常に強いのではないか。

Oodiで感じた、
「自然に情報を得られる場所」
そのための
「非常に広い空間」
「情報を得るよりは情報を創造する場の多さや、創造からの反射として得る情報をも情報とする感覚」
みたいなことは、
「自然と人間の関係」
の表現なのではないか、そんな気がしたのである。
Oodiの床は、必ずしも水平ではなかった。
「自然環境は水平でないのが普通なのです」
ということなのだろうか。

イタリアで学んだ控えめな創造力を図書館という形で表現したのが、サラボルサであり、Oodiなのではないか
移動教室におけるムナーリメソッドのワークの中で何度となく語られたのが
「ムナーリは自然から学んでいました」
という言葉だった。

だとすると、私になりに感じた「自然を表現しようとしたOodi」に、控えめな創造力が表現されているというのはあながち間違いではないかもしれない。

シベリウス公園

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