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2022年7月23日更新 投稿者

グルグラムと磐梯町

7月は、都合3回、福島県磐梯町に滞在することになった。
今、3度目の滞在の途中だ。
Living Anywhere Commonsという共創施設のサブスク会員になっていて、 磐梯町にその拠点の一つがあるのだ。

サブスクなので、何泊しても値段は同じだからついつい長く滞在してしまう。
でも、何より嬉しいのは、涼しいことだ。
この暑い今年の夏でも、クーラー不要(そもそもクーラーがない)
扇風機をちょっと回せば、それで普通に生活ができる。
さすが、磐梯山の麓で、標高が高いことの恵みだ。

そして、
併設されたコワーキングスペースには大きな机がたくさんあって、
自分だけでその一つを陣取ることができる。
これが、自分にはとても大切なファクターである。
「ワーケーション施設には大きな机」
これが、自分には絶対に必要なのだ。

資料や書籍、やPCやタブレットなどを広げるだけ広げ、
A4の白いペーパーに鉛筆で好きなように仕事のデッサンをしても、
まだ、机が十分に余る。

ペンション村の中にあるので、お散歩コースには事欠かない。
ちょっとした小川が流れていたり、
朝からずっと鳥の声と風の音がする。
(熊注意の看板は怖い)

周囲にこれといって遊ぶものはないので、
仕事や研究に集中できる。
暑い夏といこともあるが、仕事が捗るのはやっぱり良い。

夕方になると日帰り温泉に行く。
温泉に入っていて、ふと思った。

これは自分にとって良いだけで、
すべての人にとって、この環境が最適というわけではないだろう、、、。
都会の喧騒の方が能率が上がる人もいるだろうし、
山が見える景色よりは、海が良いという人もいるだろう。
広い机だと集中できないという人もいそうだ。

しかし、学校の教室を思い浮かべると、概ね、すべての椅子は黒板に向かって、整然と並んでいる。
そこに、同じ制服を着て、同じように学ぶという仕組みになっている。
画一的一斉授業という。
椅子に背もたれがあるのは、子供たちを黒板に向かわせるためにあるのではないか、
という、とあるハッカソンでの話に、ハッとした。

個別最適な学びのための一人一台、GIGAスクール構想という話になって、先生たちに
「何が必要ですか?」
と聞いたら、

「電子黒板」

という声が多くて、腰砕けになったことがある。

プールで日焼けしないように、ラッシュガードを着せたいと保護者が言ったら、
「校長の許可をとってくれ」
と言われたというような、笑い話の記事も見た。
みんなと同じであることが大切ということが基本にあるのだろうか?
それとも、人と違うと文句を言ってくる保護者がいることを前提とした、リスク管理か?

黒板に向かって整然と並んで制服を着ているという環境に、
自分はたまたま適合したから、
学校で勉強をしていたのではないか、
(逆に、自宅ではあんまり勉強していない)

この唯一存在している学校の教室という環境が合わない人にとっては、
学校は苦痛以外の何者でもないのかもしれない。。。
(自分の青春を返せ、という気分になっているだろうなぁ〜)

温泉から出て、
でも、本当に個別最適、個性重視でいいのだろうか。。。
しっかり同じことができることも大事なのかもしれない。。。
常に、逆を考えてしまうのは、数学をやってきた者の特性でもある。
対称性が満たされないと気持ちが悪い。

最近、高校の同期がインドに赴任した。
ニューデリー郊外のグルグラムという地域に住んでいるらしい。
多分、良い地域なのだと思う。
(行ったことがないのでわからない)
が、この間、同期の妻が怒りをSNSに投稿をしていた。

高級な家具店でテーブルを買った。
組み立てに来てくれたのはいいが、ネジが一つ足りず、組み立てできない状態だった。
ヒンズー語で何か言っていて、
「すぐ戻ってくる」
と去っていったが、すでに、数日経っているが、来る気配もない。。。
早く、テーブルで食事をしたい。。。

というような内容。
間違いなく、自分も、この状況だったら怒り心頭だろう。

外国では欧米のような先進国でもATMが動いていないことは普通だが、
日本では数分止まっていても、大騒ぎだ。

ロンドンでは、電車がいきなりキャンセルになった。
理由を聞いたら、「運転手が来なかったから」
キングス・クロス駅だったので、9と3/4番線から、どこかに行ってしまいたい気持ちになったのを覚えている。

やっぱり、品質が高いというのは、サービスの受け手からすれば。
「自分の個性に合ったものがある」
という意味もあるが、
「期待したものがいつも提供される」
という意味もある。

別に何か答えが欲しかったわけではないのだけど、
自分のことだけ考えていれば、自分の個性に合ったことをやっていればいいけれど、
他人がいれば、その他人の個性に合わせないといけないということが当然に存在する。
そうでないと、個性重視ではなく、ただの身勝手な個人主義になってしまう。
個別最適と、個人主義は違う。

だから、このことを、自分の自由もあるが他人の自由もある、という意味で、

自由の相互承認

と言ったりするけれど、この感覚はどうすれば身に付けることができるのだろう?

自分の中学・高校は、学校が大荒れに荒れていた時代だった。
全員男子は学ランだったが、その中でそれぞれが個性を見出して頑張っていた感がある。
「あれが、均質化の中で個性を生み出す手法だったのか、、、」
とちょっと思ってはみたものの、やっぱりずいぶん違うような気がする。

そんなことを、午前2:00にもなって考えている、磐梯町の深夜である。
最近、ブログが休業気味だったので、ちょっと思ったことを書いてみた。

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