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2021年6月10日更新 投稿者

今日的観光評論(その5)「妄想の空の旅からジブリまで」

 

 

日本の飛行機の曙

4月30日、ANA(全日空)の2021年3月決算損益が4,000億円の赤字という報道があった。

また先日、杉並区にある自転車専門店に行く途中、「中島飛行機創業の地」の碑を青梅街道沿いで見つけた。

ここから、ステイホーム中の「私の妄想の空の旅」が始まることとなる。

 

飛行場

埼玉県所沢市には「航空公園駅」という駅がある、1987年に出来た西武新宿線の新しい駅である。

駅前は広大な公園・航空記念公園になっているが、ここは「日本の航空発祥の地」として知られている。1911年にここで日本で初めて飛行滞空時間1分20秒の飛行を行なったそうである。以来、110年を経て我々は新幹線に乗るがごとく、普通の感覚で飛行機を利用できることとなった。

また、この公園は長きにわたって「所沢陸軍飛行場」として利用され、戦後は米軍に接収され「米軍所沢通信基地」となり、1971年に一部の通信施設を残し返還。

現在は、在日米軍の通信基地があり、また東北地方南部から中国地方東部を広範囲に管轄する「東京航空交通管制部」と隣り合って航空管制を行っている。単なる公園の機能だけではない。

 

 

初飛行

筆者が初めて飛行機に乗ったのは20歳を少し越したころ、東京から福岡まで。

周りの人々は慣れた感じでシートベルトを締めて軽く目を瞑っている。

嘗められてはいけないので、私も同様に目を瞑るふりをしながら薄目を開けてそっと窓の外をみる。

「わ~、飛んだ!!」こんな鉄の塊が飛ぶなんて、と思った次第。

 

それからわずか数年後には、初めての国際線で羽田、バングラディシュ・ダッカ、サウジアラビア・ジッダを経由してギリシャ・アテネ空港へ。

当時の欧州は、南回りで約20時間かかった記憶がある。

24時間以上のストップオーバーではなく、数時間の給油?等で二か所の空港で一度降りて空港内へ。

ダッカ空港で空港警備?のマシンガンをもった複数の軍人に囲まれた。何か巻き舌英語で言っている。

「へっ?」と聞き直してみると、「お前は日本人か?」と。

どうやら空港には日本語のアナウンスがいないので、「私が乗ってきた日本航空の客に早く乗れ!というアナウンスをして欲しい」という意味のことを言っている。

「Yes Sir!!」と敬礼しアナウンス室へ。

「日本航空〇〇便をご利用のお客様・・・・」とドキドキしながら人生初の空港アナウンス。

私の航空経験の曙に話が脱線しました。閑話休題。

 

 

飛行機が身近になった話

日本の場合、島国であるがゆえに国際航空は重要である。

1960年代の日本人の渡航自由化(パスポートが自由に発給申請できるようになったこと)、1990年代に始まったオープンスカイ、格安航空社等の台頭によるLCC(Low-cost carrier)の普及により、航空運賃も相当安くなって利用しやすい移動手段となった。

季節や区間を上手に選んでいけば、北米や豪州でも10万円を切るバーゲンチケット等もある。

近隣のアジア諸国であれば、国内線程度の価格で利用できる。

国内においても、日本列島は南北に長いため、北海道や九州・沖縄への移動には重要な旅の移動手段である。そして伊豆諸島をはじめとした離島・島嶼部への移動には、飛行機が欠かせない。

 

 

 

遊び場とプロペラ

幼い頃、旧田無町(現西東京市)にあった遊び場となっていた空き地、塀が壊れていて中が見える状態であった。

中をそっと見ると巨大なプロペラだけがぽつんと立かけてであった。

後ほど調べてみると、そこは旧中島航空金属㈱の敷地で、その後日本初の巨大な団地となる「ひばりヶ丘団地」となる敷地の一部であったことが分かった。

中島飛行機の名前は以前からなんとなく知っている。

2013年のジブリの長編アニメ「風立ちぬ」(宮崎駿監督)はご存じであろう。

主人公の飛行機に憧れている少年・堀越二郎は、その後「ゼロ戦(零式艦上戦闘機)」等数多くに戦闘機を設計した人物である。

若い皆さんは、知らず知らず日本における飛行機の設計の第一人者を知ることとなっている。彼は、戦後「YS-11」の設計に参加している。

旧中島飛行機は、1917年、群馬県尾島町・太田町にて中島飛行機製作所を創業。1938年、武蔵野製作所開設、陸軍発動機生産開始、「三菱零式艦上戦闘機」通称ゼロ戦、「中島一式戦闘機 隼」通称ハヤブサ等等。

 

戦後初の国産航空機・YS-11

1956年(昭和31年)に通産省重工業局航空機武器課の赤澤璋一課長の主導で国産民間機計画が打ち出されたそうである(航空機武器課というのが凄い!)。

日本航空工業会、新三菱重工、川崎重工、住友金属、島津製作所、日本電気、東芝、中島飛行機で一式戦闘機「隼」を設計した富士重工業が中心となり、戦後初の国産航空機を作ることとなった。これが「YS-11」であり、長く日本の空を飛ぶこととなった。

YS-11の「YS」とは、「輸送機」と「設計」のローマ字の頭文字「Y」と「S」であったそうな。

1964年、全日空との間で20機の予備契約が調印され、量産を開始。

1964年9月、日本航空がアテネから運んできた東京オリンピックの聖火を日本全国へ空輸した記録がある。

2006年(平成18年)9月30日のラストフライトへと「YS11」は続く。

西武新宿線「航空公園駅」の駅前に展示されているYS-11A-500R(JA8732)機は、昭和44年(1969)に製造された第101号機で、全日本空輸(株)およびエアーニッポン(株)のご好意により寄贈。

この機は平成9年(1997)4月13日の846便(大島-東京)を最後に、引退。

 

風立ちぬ

ジブリ作品の「風立ちぬ」の主人公・堀越二郎は、前述したようにゼロ戦をはじめとして第二次大戦中に多くの航空機を設計した実在の人である。

ゼロ戦、ハヤブサなど帰ってきた戦闘機はほとんどなく、その後は雷電等の爆撃機の設計にも関わったそうである。戦後は、YS11の設計に関わり国産初の航空機の足掛かりを作った。

私が幼い頃に見かけた空き地のプロペラ、先日偶然に見つけた中島飛行機創業の碑、その最後の作品である「YS11」が、今は航空公園駅前に静かに着陸したままとなっている。いつか飛び立つ夢を乗せたまま・・・。

 

 

 

 

 

 

公団ウォーカー

http://codan.boy.jp/danchi/tama/hibarigaoka/index.html

 

JAS・日本エアシステムの歩み

https://www.jal.com/ja/outline/history/jas.html

 

株式会社SUBARU 沿革

https://www.subaru.co.jp/ir/library/pdf/fact/2017/fact_history.pdf

 

風立ちぬ公式HP・スタジオジブリ

https://www.ghibli.jp/kazetachinu/

 

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