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2020年12月31日更新 投稿者

林業を考える(第4回)

Salon de ∫u kenの第4回目、古川泰司さんの「森と林業のマーケティング」から触発されて書くことにした、林業から社会を考えてみるという4回目です。
そろそろ結論を書かないといけないのですが、結局、今後の行末、みたいなところを書いて終わりにしたいと思います。

1 これまでのまとめ

過去3回お話しをしてきました。
最初の2回は、世の中のことは、いくつもの尺度で測られているように見えて、それでも、それは全てではない、というようなことをお話ししてきたと思っています。

  • 「お金」という「秩序」は、大切なことだけと遠い未来を見失う傾向を持っていること
  • 原発事故も確率0ではないはずで、そういうものが見えないようにされてしまっていること(確率が少ないことと、それが発生した時の影響が膨大である、ことは別のことだからです)

そして、前回は、

  • 実は林業を産業として川上から川下まで一つの流れとして見たときに、川下(いわゆる消費に近い部分)の価値・価格を向上したとして、それを、川上(まさに森を育てる人々)の利益にまで還元するには、川中の役割が重要なのではないか。
  • ただし、金融としてこれを捉えると、大きなリスクを川中が背負うことになってしまう

というようなことをお話ししました。

少し前に遡ります。プロローグで、私は以下のような問題提起をさせていただきました。

田舎で増産される、都会的な人びと。
東京は「生き物な人」として生活するには生きづらい。
逆を言えば、「生き物でない人」にとって快適である。
考えてみれば、田舎で「都会に順応するように育てられた子供たち」が、都会に出ていってしまうのは当たり前のような気がしてくる。

前3回でお話ししたことは、都会的な「金融」の考え方で林業を捉えている、という方向性でのお話しでした。

  • 金融的な考え方(つまりは「生き物でない人」的な考え方)をさらに進めた場合には、どうなるのか?
  • 一方で、「生き物な人」的な考え方で進めた場合には、どうなるのか?

そのあたりを、掘り進めてみて、最後にしようと思います。

2 さらに詳細を見える化していく

金融的な考え方(つまりは「生き物でない人」的な考え方)をさらに進める、という方向性で少し考えてみます。
デジタル化、データサイエンスが華やかな時代になってきました。
西粟倉村では、一つ一つの木の管理をデジタルで行う、と言った取り組みが始まっています。
日本全国の木がデータ登録され、どこでどういう価格が付けられて取引されているか、何に利用されているか、などの情報が全て明らかになる、そういう時代がやってくるのかもしれません。ブロックチェーンの技術を使えば、改変ができない「ガラス張り」が実現する可能性もあります。

これは、川上から川下まで、どこでどれだけの付加価値が追加されていて、その妥当性を検証できるということを意味します。

消費者から見ると、まさにトレーサビリティーが明らかになることで、品質が担保されるということにつながります。
実際に、国産材が輸入材と比較し、何がどう良いのか悪いのか、コスト面、品質など含めて、いろいろな判断もつきやすくなるのではないかと思います。

なぜ、国産材の価格が10000円で、輸入材の方が高いのか、なぜ、価格が定価傾向になっているのか、原木市場によって素晴らしい銘木が野晒しになっていて売れない、みたいなことも避けられる可能性がありますし、無駄な木端ができることもなくなる可能性があります。
全体として、川上にとってはウェルカムな状態と言えるかもしれません。

とはいえ、いくつか課題もあります

  • 多分、既得権益との強い争いの上で、この結果に至るだろう、という実務上の課題
  • もう一つは、何でもかんでも明らかでいいのだろうか、という不安です。いわゆる監視社会に対する不安に近いものと言えるかもしれません。

しかも、全部機械的にわかってしまったら、ビジネスなど楽しくないでしょう。
人生はギャンブルみたいなものだ、というのは、Salon de ∫u kenの第5回で、太田正隆さんにお話しいただいた時の話題でもありました。
(その時の映像はこちらです)https://youtu.be/m18N1KzeafM

3 金融的秩序から開放する

「生き物な人」的な考え方で進めた場合には、どうなるのか?

経済学者の宇沢弘文が提唱した「社会的共通資本」という概念がこれにあたるのではないか、と最近感じています。
非常にシンプルにいえば、
「世の中にはお金に換算してはいけないものがある」
という経済学の理論です。

これは、お金に換算できない、と言っているのではなく、「お金に換算することによって、そのものが歪に見えてしまうからやめたほうがいい」ということだと私は理解しています。何かで測っているということは、測られていない何かを捨てていることになるからです。
全能の神であれば、できるのかもしれませんが、数10年先ですら、正確に予想することはできません。
まさに「コロナウィルス」はそれを教えてくれています。

宇沢先生は、金融、金融機関、医療、教育、公共的な交通機関、輸送システムなどは、社会的共通資本だと述べています(人間の経済(新潮新書) p55〜56)

第3回でお話しした川中の人々は、、まさにこの社会的共通資本を民間で実現しようとしている人々、だったと言えるのかもしれません。

この話はとても感動的なのですが、とはいえ、では、それを誰がやるのか?
というところに非常に難しい課題があります。
端的にいえば、
「金」の「秩序」が入らない枠組みの問題は、まさに「親方日の丸」に象徴される行政の保守性に全てが現れています

「市役所に入ったの。安定していていいね」
「いい会社に入ったね、これで将来安定だね」

という言葉が全てを物語ります。

4 では、どうすればいいのか?

第3回で示した民間の川中の人々は、デジタルなどでの見える化を通じつつ、「お金ではないという秩序」を作る中で、産業全体の価値向上を進めて来られた方々でした。
行政で似たようなことができているのは、過疎の中で、知恵を絞られている地域が多いように思います。
行政から民間的な「生き残りの投資」を進めている地域です。

明確な答えはないのですが、①デジタル化で見える化を進め、②「お金だけではないという秩序」を作っていく、社会的共通資本を進める上で、キーになるのが実は情報化なんじゃないか、という気がしています。

これを決める上で最後に残る不安は「監視社会」にならないための線引きはどこか、ということになります。
それを決めるのは、実は「自分」でなければいけません。
教育の中で、常に感じていた、データポータビリティーという概念。まさに、ここが重要になるのではないかと思います。

古くから、この概念はありました。
情報を出してPRするお店、一見さんお断り・取材お断りのお店
どちらの生き方でも、継続するお店も、そうでないお店もあります。

これと同じことが、社会の中で形成されていくと、新しい秩序にアップデートされると思っています。
林業から随分話がすっとんだ気もしますが、この辺りが整備されていくことで、林業の未来もできそうだ、そういうことを考える種を、古川さんにいただいた気がします。

2020年の大晦日。
2021年が良い年でありますように。

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