2020年10月17日更新 投稿者 代表理事:澤 尚幸
林業を考える(プロローグ)
1 プロローグ
「日本の森に元気がない」
山を歩いて、そんなことを感じ始めたのは、この15年くらいのような気がする。
今年の夏から、建築家で林業に詳しい古川泰司さん、デザイナーとして活躍されている川村貞知さん、そして私の三人で、
Salon de ∫u ken(さろんですけん)というオンラインイベントのようなものを初めて4回目がすぎた。
そもそもは、山梨県大月市の古民家「健康荘」をシェアして借り受けているメンバーなのだけど、コロナ禍もあり、なんとなく人恋しさもあって、こういうイベントでもやってみますか、それを、「疎」である自然の中にある健康荘から発信してみよう、そんなことがきっかけだった。
4回目は「森と森林のブランディング」というお題で、古川さんのお話しが中心だった。
健康荘をシェアするメンバーにとっては、直球の話題、だったと言えるかもしれない。
1時間ちょっとの熱のある古川さんのお話しから
「林業の未来についての解を求めることは、実は社会や地域全体の未来についての解を求めることになるのではないか」
という、ちょっと大きな「問い」が私の頭の中に浮かんできた。
そして、古川さんのお話しを聞く中で、4つか5つほどの切り口からそれは正しい「解」に到達できるかもしれない、という
「証明の糸口」
のようなものがおぼろげに見えた気がした。
これから何回になるかわからないけれど、それを少しずつ、ブログに書いていこうと思っている。
2 森と僕
私の10代は、伊勢神宮の神宮林やその隣接地域という、豊かな森や川とともにあった。
神宮林は広大で豊な自然林だ。
19歳で東京に出てきて、都会の刺激と引き換えにそういう豊さを失った。
当初は、刺激に圧倒されて、その豊さを気にすることはなかったけれど、
気づくと、私の生活に登山という新たな趣味が加わった。
山に行くとアイデアがまとまり、肩こりがなくなり、ちょうど良い心身のバランスにちゃんと落ち着いていく、そんな体験を感じるようになった。
今で言えば、データサイエンスのような仕事が長かったので、
データサイエンスの持つ力の素晴らしさ
そしてそれを積極的に使っていく、ということは、これまでもこれからも実践したい。
一方で、山と都市を毎週のように行き来する20代、30代が続く中で、
「人間も生き物だな。自然とともに生きてきたDNAの延長線に自分がいる。人工物の中で生きた体験はまだ100年くらいなんじゃないか。だから安定するはずがない」
とか
「自然も人のいろいろなセンサーを介して理解されているとすると、自然は自分の外の中にあるのではなく、自分の中にあるんじゃないか。だとすると、大事なのは、「センサー」をちゃんとメンテナンスしておくことなんじゃないか」
みたいなことを考えるようになってきた。
登山という趣味が、趣味から「生活のために必要なもの」に変わっていったという実感があるのは、こういう「仕組み」がそもそも人間の中に備わっているからに違いない。
「登山」という趣味を紹介してくれた、大学の同期がいなかったら、もっと早くに心身ともに壊れていたのかもしれない。
そう思うと「ゾッ」としないわけでもない。
20万くらいの地方都市から東京にやってきた彼は、自然と都市の両方についてのインターフェイスを持っていた。それが、私を救ってくれた。
改めて考えてみると、都会の時間は増えているけれど、都合、50年くらい、森というものと連続的に付き合ってきたことになる。
この間、手入れされていない里山や森林に出会うことが増え、有害鳥獣との出会いや被害対策が年毎に増えているという現実に遭遇してきた。
森林資源の広がる山間地は過疎化が進む。
人が減っていくこと、高齢化していくことは、すなわち「手入れ」ができないということを意味する。
難しいことではない、誰でもわかることだし、とっくの前に予測できることだったはずだ。
「森が水を蓄える」
小学校の時の社会科で習った気がする。
だから、この惨状が、自然災害を増やすことにも繋がる。
森は都市と隔絶したところにあるのではなく、実は強くつながっている。
これでも、別に難しいことではない。
小学生でもわかることなのだから。
そして、そもそも、人が都市のような自然から隔絶した地域にいれば、先にのべた「人が生き物であるとか、センサーをメンテしておくべきだ」という機能も要らなくなるのだから、そこが退化するのは自然なことだ。
ずっと東京で過ごしてしまえば、そもそも、そんなセンサーは不要かもしれない。
それが何代も続けば、進化の過程で退化するのかもしれない。
(アフリカの自然で生きる部族に視力が異常に良いという話があるが、良いのではなく、我々が退化しただけなのだろう)
何事も使い続けるからスキルもアップし、ちょっとした変調にも気づくことになる。
それは
「相手がある、相互に作用する相手がある」
ということが前提だ。
つまり、日本全体に、「自然」というものを「人の営みの中の一部」として理解できる人が減っている。
このことも、少し推測すればわからないものでもない。
「最近はスクールバスが普及したので、子供たちが田んぼのことを知らない」
というある意味驚くべき話を田舎で耳にするのは別に珍しいことではない。
田舎で増産される、都会的な人びと。
東京は「生き物な人」として生活するには生きづらい。
逆を言えば、「生き物でない人」にとって快適である。
考えてみれば、田舎で「都会に順応するように育てられた子供たち」が、都会に出ていってしまうのは当たり前のような気がしてくる。
こうした様々なことから
「森とか林業の未来を考える」ということが、この社会にとって大切なことなのではないのか、」
という「問い」に至った、自分の頭のロジックなのではないか。
次回からは、このことを少しずつ掘り下げてみたい。
出羽三山羽黒山伏最高位におられる星野先達は「考える前に感じろ」と言われるが、
今回は、直観で感じた「問い」を、噛み砕いてみるというのをやってみた。
林業あるいは自然ということを問うことが、どうも、今の社会課題の解決に繋がりそうだ。
それは、都会で学ぶのが良いか、自然から学ぶのが良いか、とか、偏差値教育で良いのか、と言った、なんだおも繰り返される教育の話の解にも繋がるような気がしている。
数学者の岡潔は「春宵十話」のなかで、「人間性よりも動物性を優先してはいけない」という趣旨の話を何度も繰り返されている。動物性を「見える目」でなく「見る目」とか、本能という言い方でも表現している。そして、子供を育てるのは大自然だ、とも。
人間は、動物とは違い、レバレッジのある「道具」を持っている。だからこそ「本能ではなく、見える目」を持って、行動するということを求めているのだろう。
「見える目」は、自然との相互作用の中で、しっかりと作られていく「スキル」なのだ。
生き物としての人という話と、動物性を優先しないという、この教えが、自己矛盾することを少し恐れたので、少し、ここに解説を加えておきたい。