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2025年12月18日更新 投稿者

数学科卒の生態

「数学科卒です!」
というと、 「ほぉ、、、」 という不思議な感嘆を得ることが少なくない。
「あの難しい数学をやられていたんですか、私にはわかりません」的な畏敬の念と
「ちょっと不思議ちゃんなんですよね、多分」という 感覚がミックスされた”感嘆”であると勝手に思っている。
どちらかというと後者のウエイトが多分、高い。

まあ、法学部卒です、みたいな説明よりは、やや特異に受け取ってもらえるということは、 良いか悪いかは置いておいて、アナウンスメント効果は高いだろうと推察される。

とはいえ、卒業して、40年近くも経つと、もう何もかも忘れている。
アインシュタインの
「教育とは、学校で習ったすべてのことを忘れてしまった後に、自分の中に残るものをいう。 そして、その力を社会が直面する諸問題の解決に役立たせるべく、自ら考え行動できる人間をつくること、それが教育の目的といえよう。」
という言葉にすがるように、

「まあ、なんか残っていればいいのだから」
と思って過ごしている。

先日、数学科の先輩からお声がかかった.
「ちょっとお話ししたいことがあって。。。」

この方は私とは違って、真っ当に数学をしっかり仕事で使われていて、まさに、尊敬する先輩である。
馴染みの焼き鳥屋にご案内いただいた。

「お久しぶりです。お元気ですか?」
という社交辞令から始まったお話し。
要件は一通り終わり、その後、なんとなく数学科卒の生態、みたいな話になった。
(数学の難しい話は私ができない。なので、ちょっと違う領域に先輩に入ってきていただいたわけだ。)
「数学科卒の人って、ちょっと思考法が違うような気がしていて、数学自体が役立つかどうかというより、数学的思考法がもっと役に立つことを知ってもらった方がいい気がするんですよね」
という”ふり”、をしたのだ。

実は、二宮敦人「最後の秘境東京藝大」(新潮文庫)のことがイメージされていた。
ずっと関わってきた福島県西会津町。 そこに西会津国際芸術村というアーティストインレジデンスがある。
ディレクターの矢部佳宏さんに「なぜ、この過疎の地域でアートなの?」という言葉を投げかけた時、彼から帰ってきた言葉が秀逸だった。
「みんなと同じであろうという世の中にあって、アートだけは、人と違わないと評価されない。そういう感覚を広めるためです」
その時に感じたのは、自分が一時期仕事にしていた「ピアノの演奏」もそうだし、実は数学も同じということ。
算数とか高校までの数学は、一種道具を学ぶこと
「どういうふうに問題を解くか、効率的に解くか、間違わないか」
が学びの主たる目標になっている。
私の高校時代のように、「自分で新しい問題を作ってみることが数学だ」と思っているのは少数派だろう。

これが大学に進み数学に学ぶようになると当たり前なのだけど、他人が証明した問題は例え解けたところで、何も評価対象にならない(もちろん、新しいアプローチや、違う解法なら評価されるだろうけど)。
新しい概念とか数学の世界を構築することはもちろん評価されるけど、それを記憶していても何も評価されない。
そう 「数学もアートだ」 とその時に思ったのだった。
で、このアナロジーで、”数学科卒の生態“みたいなことを考えてみると面白いのではないか。。。
先輩に壁打ちしてもらおう、ということになった。

3つほど、その時のエピソードをご紹介してみたい。

一つ目は、解はないという解

数学には、解ける問題と、解けない問題がある。
実は解けないには2つあって、「解がないという解」と、「そもそも答えがあるかどうかもわかっていない」の2つだ。
たとえば、フェルマーの定理は、私が学生の頃はフェルマーの予想だった。
つまり、答えがあるかどうわかっていないということ。
それをワイルズが解いてくれたので、「フェルマーの定理」になったわけ。
一方で、「解がないという解」も、わかりやすい例がある。
平行線は交わらない(=連立方程式に解がない)、というやつだ。
つまり数学を解くには、3つの帰結があって、なぜか、2つ目のことをあまり意識しない人が多いのかなと思っている。 (少なくとも高校までは解がないはほぼ出てこない)
なので、数学だけに限らず、この2つ目のことを、問題解決について考えておくことが大事だなと思っている。
実はこの話を、山形市で行われたイベントで昔お話ししたことを思い出した。

一方で、世の中で。この「解がないという解」が出ると、なんとか、答えを出そうとするのが日本人の癖のような気がする。
太平洋戦争で負けたのも、
「圧倒的物量のアメリカに対して、勝てるのか?」
という問いに対して、勝てないとわかっていて、神風が吹くと勝てる、という、もうわけのわからない論理飛躍をした結果、といえなくもない。
「頑張る」とか「早急に」
という言葉が乱発されるケースは、ほぼ、これに該当する。

数学をやっていると
「解がない」
を素直に受け入れる環境が整うと思う。(それが解なので)

でも、これ、少し考え方を変えれば、解が見つかることに気づく。
平行だから交わらないので、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけでも一方の線を斜めにできれば、どこかで交わるという「解」を得ることができる。

「じゃ、こうすればいいんじゃないの?」

まあ、そういう提案をすることになる。
解がない理由がわかるから、どうすれば解が得られるかもわかる
ここに数学的な思考があるんじゃないかなと思う。

二つ目は複素数。
「二乗して-1になるってどういうことなんですかね」 みたいなことが、数学に躓く原因なんだよなと。。。 でも、複素数の概念を入れることで、たとえば、

x³=1

の答えは、初めて、群ということの面白さを感じた高校での学びだったけど、そういうものが見えてくる。複素平面上の円をぐるぐる回っている感覚は複素数が入ってこないとわからない。(巡回群と言います)
「あるかどうか、というよりは、複素数という概念が入ることで、それが何かが見えてくる。。。」

「数学は自然科学を記述するための言語だ」

という言い方をされることがあるけれど、そもそも現実世界のことと繋がっていなければいけないというよりは、そうじゃないものだと思った方がいい、ですよね、ということで先輩と意気投合したのだった。

算数という現実のものを計算するという世界の延長に、「数学がある」という学びをしてしまうからいけないのだけど、算数と数学は違うものです。数学は現実にあるかどうかではない、ある意味「夢の世界」で、それを使うと、いろいろなものが「夢の世界の中の何か」として見えてきてしまうところに面白さがある、まあ、そういう話をしたわけです。

言語ではあるけど、自然科学を記述するためだけじゃないよ、と言うこともできる。。
加えて、この夢の世界みたいな話になってくると、哲学とも近くなってきて、そういえば、松岡正剛の「数学的」っていう本に、哲学と数学の近いような近くないような話が出ていたなということが蘇る。

三つ目は、同値ということ。
AからBへの生き方をどう考えるか。。。
合理的な今の世界は、AからBになるべく直線で行こうとする。
そして、おおよそ、見えてないものがあって失敗する。
みたいなことで先輩と盛り上がった。
だから、もっといろいろな俯瞰的にみないとね、、、ということでもあるのだが、その先が面白かった。

数学では同値という概念がよく出てくる。
BはCと同じ意味だ、ということ。
そうすると、
AからBへの行き方でも、AからCヘの行き方でも、言っていることは同じなので、いつの間にか、目標の話が、BからCに変わっていたりする。
同じことはAにも言えて、Aはαと同値だとすると、AからBは、αからCでも同じなのだ。

こういうことが当たり前のように行われ、そこを説明することは基本お互いしないので、周りで聞いている数学に馴染みがない人からすると
「この人たちの話はよくわからない」
ということになるんだろうと思う。

実は、BがCと同じ、CがDと同じ、、、みたいなことになると、実は、Bは、ずっと先のZと同じですよね、っていうことも普通にありうる。

自戒の念を込めていうと、
「澤さんの言っていることはわからない。。。」
と言われているのは、この、AからBの話が、何の説明もなく、αからZの話に化けている、ということだったのかもなぁ、、と今更ながら思う。

一方で、話に無駄がなく、かつ短時間で終わる
これも数学的思考のメリットと言えるかも入れない。(そう言う言語空間を持っていない人には何もわからないという多大なるデメリットを産んでしまうが。。。)

二人で焼き鳥屋のカウンターで、こんな話を延々と2時間くらいしていた。
多分、周りのお客様でもし聞いている人がいたら、
「何が面白いんだこの話?」
と多分、思われていたんだろうなぁ。。。

数学科卒の生態の勝手なちょっとご紹介でした。

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