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2021年3月31日更新 投稿者

都会と田舎の境界(その3)「都内と都下」

わかるようなわからないような・・都心・都内・都下。その他いろいろな境について少し考えてみる。テーマは、

「都内と都下」

▶都内と都下

東京の東久留米市という街で育った。昨年、市制施行50周年を迎えたそうだ。記念に素敵なマンホールが設置されていた。「ブラックジャック」である。何故ブラックジャックは、長くなるのでいずれ・・・。1970年に市制施行のため町の名前が久留米町から東久留米市に変わった。それまで旅先で「どこから来たの?」「久留米って九州の?」必ずといっていいほど聞き返された。確かに福岡県には「久留米市」がある。九州からみて東にあるから「東久留米市か・・・」地名をつけるのって安易だなと思った瞬間。
少年の頃、池袋等へ行くときには、「都内に行く」と言っていた。また、郵便物等で「東京都北多摩郡」と書くところ「都下北多摩郡」でいいといわれたこともある。今思えば、「都内」と「都下」って区別って凄い。「都(みやこ)の内」と「都(みやこ)の下」だよなって。1889年・久留米村、1956年・久留米町、そして1970年東久留米市に。

▶都心の過密と郊外の人口爆発

1960年代当時の久留米町では折しも高度経済成長真っ只中、ひばりヶ丘団地、東久留米団地、滝山団地等の大型団地が完成し人口爆発状態。1956年の町制施行時点で1万人程度の人口が、市制施行段階の1970年では7.8万人となり、駅前ではテレビのニュースで「日本一の人口の町!」と叫んでいた記憶がある。小中では教室は足りなくなり校庭に相当数のプレハブ校舎、毎週増えるクラスメート。給食センターも間に合わず、ほとんど学校給食の記憶はない。都会のスプロール現象、昔は郊外へ延びるドーナツ化現象。

▶東京への行き先表現の違い

筆者の娘は、埼玉生まれの埼玉育ち。高校生になってから池袋や渋谷等に行く場合、「東京に行く」と言っていた。「んっ??」ここは埼玉だから「東京に行く」は間違いではない。多摩地区、都下に住んでいた私にとっては近い都会は池袋や新宿等、私は今でも「都内に行く」と言っている(らしい)。私にとっての都内と都下の境はどこだろうか。道路で言えば環状八号線(環八)から内側が都内、その外にある練馬や杉並の一部には「都内」という印象はない。都内は人が混んでいて便利だが、用事がない限りほとんど行かない場所。最近、東京都では観光振興等の区分けとして都内の他に「多摩・島地区」という言い方をしている。

▶境界

境界とはこの世とあの世、現世と来世、線路の向こうとコチラ、大通りの北と南、これらは近代にあっては為政者の地租改正から始まり、我々の中では教育制度の中の学区制が一番身近であろう。小中と持ち上がり、中学では泣き別れのケースなど交々である。地形的な事象から分かれる場合、古来から川の上流と下流、川の右岸と左岸、峠・山を境とした分かれ方がある。もっと大きな境をざっくりと言えば、例えば中世の「荘園」、「戦国武将の諸国・諸藩」等、地球規模になると国という単位がある。これらには、思想・宗教、民族、経済力、資源等が複雑にからんで、揉め事は時には極地的紛争から内戦、国際紛争、世界大戦にまで広がることがある。

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