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2024年9月1日更新 投稿者

インドネシアから帰って考えたこと

今年の8月にインドネシアに初めて行ってきた。

日本は毎日40度近い酷暑。
赤道に近いインドネシアはさぞかし暑いだろうと思ったのだが、さにあらず。
最高気温は31〜32℃くらい。
夜になると、25℃以下まで下がる。

「熱帯には熱帯夜はない」

4日ほどの滞在。
首都ジャカルタでもなければ、観光地のジョグジャカルタやバリ島でもない。
スラカルタという、ジャワ島の中の古都に滞在した。
昔はソロ(SOLO)と言われていたらしく、今でも、ソロが普通に使われている。
大阪を上方とか、東京を江戸というようなものだろうか。

日本の酷暑とは違うものの、ずっと気温が高い。
車窓に続く、田圃では、田植えの横で稲刈りをしている光景を見ることができる。
普通に三期作、四期作をやっているらしい。
なので、同じことを一緒にやる、とか、計画的にやる、ということにはなりにくいらしい。
(インドネシアに修学旅行に行けば、稲作の流れを1日で学べるということでもある)

環境が文化を作る

とはこのことなのかもしれない。

私は三重県の生まれだが、暖かいからか、昔は二期作も行われていた(らしい)
太平洋戦争に従軍したおじさん曰く、
「三重県出身の兵隊はハングリー精神がなくてダメだった。会津や熊本は強いよ」
といつも私に語っていた。
豊かだとのんびりした文化になる、ということだろう。
これも、環境が文化を作る、ということに他ならない。

御多分に漏れず、インドネシアの人も、総じてゆるい。

沖縄時間というのがあるが、インドネシア時間というのがあると友人はいう。
予定通りになんて物事は始まらないのだそうだ。
(実際、滞在中も、30分くらいは普通に遅れてなんとなく始まることが少なくなかった)
日中、なんとなく歩道にぼんやりいる人も少なくないし、ホテルのフロントで
「パスポートのコピーいらないの?」
とこっちが尋ねるまで失念していた、なんていうこともある。
道路も、新たな開発に合わせて接続しているらしく、
「いきなり、道路でUターンをしないと、目的地に行けない」
「なんだか、全く違う方向に入っていくのだが、そこにロータリーがあって、そこまでいかないとUターンできない」
というような道路のルートができたりする。
スカルノ=ハッタ国際空港も、大きいのはいいことだが、ものすごい距離をブリッジまで歩くことになった。
(日本の空港の感覚で行くと、乗り遅れる)

一方で、じゃ、ゆるいだけか、というとそうでもない。
信号が少ないので、道路の横断の時に、場所を選ばないと、交通事故になる。
車の間をすり抜けるように、悠々とみなさん渡っていく。
入国審査も厳格だった。でも、入国審査官は、最後の笑顔を忘れない。
イスラム教徒の人は、本当にお酒は飲まないし、実際、ほぼ街で売っていない。
(ソロではたった一軒のスーパーで、ビンタンビールを買うことができた。酒が大好きな友人が毎日通っていたのが印象的だった。)

「やる時はやるけど、ゆるくていい時は、ゆるくていい」

この感じが、私は好きだなぁ、と感じたのである。
そして、
「このゆるさは、日本にも昭和の頃まではあったよな」
と思ったのだ。
「正しいゆるさ」
とでもいうべきだろうか。

この「正しいゆるさ」は、なぜなくなったんだろう?

私と同年齢の人と話していると、高校にしろ大学にしろ、飲酒をしてなかったという奴を見つける方が難しい。
当然、20歳未満である。
お酒が用意されていない大学の新歓コンパなど、昭和の時代には想像できない。(実際、私も飲んだ)
高校もほぼヤンキーで埋め尽くされているようで、中学校のガラスはほとんど割れた、なんていう状態の話も聞いた。
実際、中学校で抗争なんていうのも普通に聞いた。(私の同級生が乗り込んだらしい。私は関わっていない)
しかし、そんなやんちゃなメンバーも、60歳に近づく中で、「まあ、それなりにみなさんちゃんとした大人になっている」のである。
大企業の重役や、霞ヶ関の重責を担う人も少なくない。

いろいろこの歳になってくると、「時効だ」と思うのか、昔話が聞こえてくる。

警察ザタになったケースもあるようだけど、
「諭されて、無罪放免。もうやるなよ!」
みたいな感じになっていたケースもあるらしい。
飲酒現場を教師に見つかったケースでも、教師が
「まあ、知らなかったことにする」
で終わったようだ。そればかりか、教師が
「俺の愚痴を聞け!、お前ら酒持ってるだろ!」
と言われたケースすらあるらしい。
高校の卒業式が終わったら、担任が
「俺にも一本くれ」
と言われ、一緒に煙草を吸った、という話も聞いたことがある。

ルール違反だけど、なんか、どれもいい話のような気がする。
やんちゃをやったけど、まあ、無茶にならないところで、踏みとどまる
「ダメなことにもダメなりのルールがある」
のである。

森のようちえんの話などを聞いていると、
子どもは「ダメだよ」と言わなくても、自分で、考えて「ダメなもの」を見出してくるという。
ダメなことをするから、ダメなことがわかる。
ダメなことを先に言ってしまっては、何がダメなのかは経験しないまま成長する。
だから、ナイフを使えない大人が生まれる。
どっちがいいのだろう。

先日、体操の女子日本代表が19歳での飲酒が原因で出場辞退、という話で議論が湧いていた。
「ここまで頑張ったんだから許してやればいいじゃないか」
「ルールなんだから、厳格に守らせないと、いけない」
「常習性があったようで、だからダメなんだ」
みたいな話だったのだけど、私は、
「ちょっとした飲酒くらいなんだったら、まあ、許してあげれば派」
である。
(許してあげないと、今の50代以上は、全員まともな人生を歩むスタートができていない気がするので)

インドネシアから帰国して最初に感じたのは、
日本には息苦しさが漂っている、
ということだった。
多様性とか言っている割には、どうにも息苦しい。
コンプライアンス、ルール、みたいな話で、もう、総監視社会のようになっているからではないか。
息がつまる。

公園に行けば、やっては行けないことの嵐。
ニュースは、◯◯ハラで充満している。(それ自体は良くないことだが、気に入らないと、◯◯ハラで追い込む、みたいな非常識なことが日常的に行われているとも聞く)
20歳未満が飲酒をしたら、大騒ぎ。

でも、飲み過ぎて、電車の中でゲロを吐いているのと、19歳の飲酒とどっちが迷惑なんだろうか?
不倫もよくニュースになるが、そんなの当事者間の問題で周りは関係なかろう、という気がする。
歴史上の偉人たちには、その手の話が山ほどあるが、そりゃ、どう解釈すりゃいいのかね、と思ったりもする。
(それこそ源氏物語はどうなのか)

加えて、裏でゴニョゴニョやる、あるいは、匿名でゴニョゴニョやる。
そういうことも息苦しさに拍車をかける。
◯◯ハラは、おおよそ、個人の人権を守るという視点で、このゴニョゴニョに入ってしまう。

ルールは、あくまで常識の中から作られた基準に過ぎない。だから、ルールを厳格に適用しては行けないケースもあるのではないか。
判断を迅速にするためにルールを作りマニュアル化されたにもかかわらず、いつの間にか、なぜこのルールを作ったのか、という経緯は忘れ去られて、
「ルールは絶対」
ルールを守ることが目的化する、ということがあまりにも強権的に語られてはいないだろうか?
もちろん、19歳でも常習的な飲酒なら、それはルールを厳格に適用することになるんだろう。
そこはそこでしっかりやってほしい。そちらが逆に疎かになっては困る。

しかし、どうにも、ゆるくていいことと、ゆるくていはいけないこと
そのバランスが、
ゆるくていいことほど厳格に適用され
ゆるくていはいけないことほどいい加減
になってはいないだろうか。

以前、私の上司がこういうことを言っていた
小さい金額の投資や支出は細かくチェックするのに
大きい金額の投資や支出はチェックする人間がよくわからないからいい加減になる

ルールの適用の話も、どうもこの話と似ているように思う。
小さいことより、大きな話の方が、ゆるくなる。
昨今の政治・社会情勢を見ていてもそう思う。
おかげで、慎ましやかな庶民ほど息苦しくなる。

そんなことをインドネシアから帰って考えた。

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